里村紹巴と小牧の伝説

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 ここでは、小牧山城築城の歌会で起きたできごとの伝説について紹介します。

 

 連歌とは

 和歌から発展した伝統的な詩歌の形式で、多人数による連作を基本とします。室町時代から江戸時代初期には盛んに歌会が行なわれ、公家・武将・一般人の間に広まりました。

 連歌では、1つの句を五七五または七七とし、1人が1句ずつ(五七五・七七を交互に)前の句につなげて順番に詠みます。百句をもって1つの作品(これを「百韻」と言う)とするのが一般的でした。

 連歌では、最初に詠まれた五七五の句を「発句」と呼びます。当時は有名な連歌師の詠んだ発句を集めた「発句集」が盛んに作られました。この発句が独立して発展したものが俳句です。
 また、第二句を「脇句」、最後の句を「挙句」と言います。慣用句「挙句の果て」というのはここからきています。なお、「二の句が継げない」の「二の句」は雅楽からの言葉で、連歌とは関係ありません。

 

 里村紹巴とは

 戦国時代の有名な連歌師の1人で、多くの公家や武将との交流がありました。永禄10年(1567)の「富士見道記」という紀行記には、多数の発句がおさめられています。

 明智光秀が催した百韻に参加したため、一時秀吉から疑いをかけられましたが、後には徳川幕府に仕えました。

 

 小牧山城築城祝いの歌会

<里村紹巴>

 言い伝えによれば、小牧山城が完成したとき、織田信長が里村紹巴を京都から呼びよせて、祝儀のために百韻の歌会を催したとされています。この席で、信長から発句を求められた紹巴が「あさ戸あけの麓は柳さくら哉」と詠んだところ、信長は「新しい城の竣工に”あける”というのは不吉だ」と機嫌を悪くしてなじったそうです。紹巴は面目を失って、その夜のうちに京都へ逃げるようにかえったと言われます。

 また、このとき紹巴は玉林寺に泊まり、そこから小牧山城へ出向いたと言われています。玉林寺の山門前には、後にそのことを記念して建てられたとされる「居士紹巴之塔」があります。

 

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